切り絵として描き始めて7年が過ぎたころ、大阪でシンポジュームに参加する機会があった。そこで僕の切り絵に大きな変化をもたらす事になるSF作家の小松左京先生と出会った。SF小説が好きだった僕は、チャンスがあれば是非会ってSFの話を聞きたいと思っていた。話をしていくうちに、絵の話になり、僕は驚いた。先生は絵画についても詳しく美術評論家のようだった。僕の切り絵の話になり、タブロー(絵画)であるような切り絵を描いてみたらどうなのだろう?と言われた。当時は、絵画というよりも切るテクニックを追求していた。先生に会った後、僕の中の何かが変わっていくのを感じた。
それ以後、僕の良き応援者となり各界の著名な方々と出会う機会を与えてくださった。そして、僕はたくさんの刺激を受け、様々な知識を学んだ。
数年経った頃、二人の方との衝撃的な出会いがあった。一人が小松先生の友人の岡本太郎氏だった。僕の個展会場に来られて、切り絵を見た岡本太郎氏は、「若いのに絵が綺麗すぎる・・・もっとムチャクチャ冒険してみろ」とだけ目を大きくして言われた。時を同じくして、大阪の個展会場で、新聞社の学芸部記者から、国画会の須田剋太(すだこくた)氏を紹介された。「久保君が、紙を切り刻んでいく切り絵に対する精神は面白いが、絵としては説明的だ」と言われた。お二人から言われたそれぞれの言葉が、全く理解できなかった。
なぜ綺麗な絵が悪いのか?悩みに悩んで、僕は小松先生へ相談に行った。「お二人の画家が言われた言葉がいくら考えても理解できないのですが・・・?」それを聞いた先生から「君の絵は、細かく切れていて綺麗な切り絵だと思うが、その絵から伝わってくるものが、まだない。もっといろいろなものを見たり感じたり経験しなければ、伝わる物は出てこない。君は海外に行くべきだよ。以前言ったように切り絵もタブローにならなきゃね」と言われた。
それまで海外に出る事は一度もなく、海外に行って生活するなど考えもしなかった。しかし、今の僕にないものを見付ける鍵になるかもしれない・・と思い1984年、単身でスペインに渡った。
初めての海外で、言葉もわからず、困ることも多かった。異文化にカルチャーショックを受けながらも初めて出会うすべての物事は僕の五感に吸収された。切り絵を絵画として表現していくと決め、デッサンの勉強をしながら切り絵も制作したが、スペインには従来使っていた和紙や染料はない。今思えば違う材料を使うことで、違う発想ができるようになった。一年間のスペイン滞在で得た最大のものは、感じたことを自由に表現していくということだった。
帰国後、新しい試みで作品制作に没頭した。紙を切るという基本に、オリジナル和紙を重ね、質感、深みや影を出す。パステルやアクリル絵の具、布、砂といった素材も使った。これらの素材を作品に取り入れて表現するミクスト・メディア(混合技法)と呼ばれる独自の技法をやがて築いた。
27年前に小松先生に会えたことが僕をここまで成長させてくれた。そして、偉大な画家の岡本太郎氏・須田剋太氏にお会いして絵を描く精神について提言いただいた。そして、悩み、苦しんだ日々を今は理解できるようになった。名前は、出していないが本当に多くの人に会えた事は僕の財産である。
ここ数年海外にも行くが、日本国内を旅するのが多くなった。阪神・淡路大震災が、そのきっかけだった。僕も、西宮市に住んでいて震災を体験した。何百年もそこに在り続けたものが、一瞬にして無に帰す光景を見て、僕の目に頭に描き出される日本の良き伝統や文化、その姿を残したいという気持ちが強くなり、旅を続けている。
新たな出会いの始まりである。
「兵庫教育 第58巻 特集 2006年 7月号 ー出会いに導かれてよりー」
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